1999年4月19日「寂しいということ」

 

『寂しいということ』

昨晩の電波少年を見ていて、ある若手芸人がこんな言葉を発した

「寂しい」

寂しいか・・・。

そういえば、ここ最近「寂しい」と感じたのはいつだろう?と考えた。

僕は、このホームページを運営しているということもあり、
また、多くの方々に来ていただいているということもあり、
ここ半年間、つねに誰かと繋がっているような錯覚に陥っているような気がする。

そう考えてみると、もともとこのホームページを作ろうと考えた
理由に行き当たることができた。

「やんちゃくれ」の撮影が1ヶ月無く、劇団が地方に行っていたりして、
あまり人に会わなかったあの時、僕は「寂しかった」んだと。

さらに考えた。
「寂しい」とはどういうことなんだろう。

誰かにかまってほしいと思う気持ちなのか
誰かと繋がっていたいと思う気持ちなのか
誰かに心配してもらいたいと思う気持ちなのか
誰かに甘えたいと思う気持ちなのか

「寂しい」は、実は勝手でひとりよがりなものだ。
「寂しい」と誰かに言われても、僕にはどうすることもできない気がする。

その昔、僕はある人と「寂しい」という問題で関係をだめにしたことがあった。
僕自身の勝手な「寂しい」が、相手を押しつぶしてしまった。

その逆もあった。相手の「寂しい」を受け止めきれなかった。

それ以来、僕は「寂しい」と思うことが少なくなったように思う。
いや、慎重になった、というのが正解か。

「寂しい」を克服する回路ができたのかもしれない。
「寂しい」が相手を傷つけることもあるのだと、気づいたのかもしれない。

それがいいことなのか、悪いことなのか、僕にはわからないのだが。

相手をどんなに大切に思っても、どんなに受け止めてあげたくても、
結局は本人が立ち直らない限り、「寂しい」からは抜け出せない気がする。

たまには本音を見せたいと思う気持ちも理解できる。
たまには甘えたいと思う気持ちもわかる。

でも「寂しい」の容量は、実は変わらないのだ。

相手は、自分と同じだけ「寂しい」思いをするかもしれない。
相手は、傷ついているのかもしれない。

あなたの「寂しい」を、受け止める人のことも少しは考えてあげてもいいと思う。

そうして他人を思いやることができれば、
きっと誰かがあなたの「寂しい」を受け止めてくれるんじゃないかな。

色んな人が集まるようになって、
コミュニケーションサイトとして発展しているこのページ、

「寂しい」をぶつけるだけでなく、
「寂しい」を受け止めることができる

夢之歳月が、そんなサイトになれば嬉しいな。


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