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ここに、一人の登山家がいた。
彼の使命は山に登ること。
彼は、ただ自分の使命に忠実で
山に登り続けていた。
何年も登りつづけたある日、彼は自分の登ってきた道を
ふりかえった。そして、驚いた。
―俺はこんなにも山を登ってきたのか。
彼の心にある種の感動と、驚きがあった。
決して自分の登って来た山は高くない。
でも、彼にとって、この高さこそが証しなのだ。
雨にうたれながら、風に吹かれながら
でも彼は、必死に登って来た。
登山家にとって、山に登ることこそが使命であり
生きる証しであり、彼の存在意義そのものだった。
この山こそが、彼にとっての居場所だったのだ。
ある晩、彼は嵐に襲われた。
これ以上先にも進めず、
かといって 引き返すわけにもいかない。
もう少し、もう少し登れば
きっと山の頂が見える、彼はそう信じていた。
考えた挙句、彼はじっと山小屋の中で
嵐がやむのを待ちつづけることにした。
しばらくすれば、嵐はおさまるだろうと。
そうすればまた、この山を登ることができるだろうと。
しかし嵐はおさまることなく、次第に彼は不安になった。
―俺はこのまま、ここで死ぬのか
このまま嵐がおさまらなかったらどうしよう。
例えおさまったとしても、山は跡形もなくなっているんじゃないか。
彼は不安と恐怖でおかしくなりはじめていた。
山小屋に閉じ込められるうち、彼は自分が山を登ってきたことすら
信じられなくなってきた。
その瞬間、 山が崩れ始めた。
どんどん足場は無くなり始めている。
でも、彼は動く事すらできない。
彼の登って来た山は、今にもなくなりそうだ。
薄れゆく意識の中で、彼はこう思った。
―なぜ俺は、こんなところで立ち止まったのだろう
登山家の使命、それは「生きて帰る事」である。
生きて帰れば、また新しい山に登る事ができる。
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