2002年2月8日「ヒバゴン」

 

ジョナ部に、兼ねてより噂されていた大型ルーキーが入部した。
新人の大木である。
着実に活動を続けるジョナ部に、どんな未来が待ち受けているのか。

昨日、今日と用事で雪山に出向いた。
3年前に出会ったヒバゴンに、近況報告と差し入れをするためだ。
ヒバゴンは愛も変わらず雪山で、悠悠自適な生活を送っていた。

彼は3年前のある日、人生の全てを捨てて雪山に入った。
以前は、世界1位だった。チャンピオンには最後までなれなかった。
彼は雪山にこもる前の最後の晩、僕に話した。

「俺は今まで自分が一番だと思っていた。
でもある時気づいたんだ。俺の上にはチャンピオンがいると。」

彼は、八丁堀にも届きそうなぐらい大きな声で叫んだ。

「向上心がないやつは駄目だ。俺はそういう人間をたくさん見てきた。
でも、自分がそうであると気づいたのは、2分前だ。」

遅いよ。僕は心の中で突っ込んだ。

「上を見ればきりがない。だが、少しでも前に進もうという意思こそが
人を大きくする。俺はそうして、今まで大きくなったんだ。
だが、自分があるとき1番だと思ってしまった。
それ以来俺は、もう二度と上を見ることはなかった。
後に残るは、いつ自分の地位がおびやかされるかもしれないという
恐怖心だけだ。毎晩毎晩不安になった。
でも、俺は1番だと思いつづけていたんだ。
チャンピオンがいるとも知らずにね。」

その晩の熱燗は、今までで一番きつかった。
酔いがまわり、彼も饒舌になる、

「女房に言われたよ。」

彼は妄想の既婚者だ。

「あんたは何に追われているんだい。自分の上に誰かいたって
それはかまわないことじゃないか。
あんたは今までそうだった。上を見て、頑張ってきた。
あたしはそういうあんたが好きだったよ。」

彼は照れくさそうに話した。
存在しない女房を思い浮かべて。

「一人になりな。今のあんたにはそれは一番だ。
一人になって、色んなことを忘れるんだ。
そうすればあんただって、昔のように戻れるよ。」

そして彼は決心した。
雪山にこもると。
妄想の女房に言われた通りに。

3年ぶりに彼に再会した。
僕の話を彼は熱心に聞いた。

「難しいもんだね、人の心っていうものは。」

彼は穏やかに、しかし力強く語り始めた。
その声は、3年前とは別人だった。

「自分が正しいと思っている人間には
何を言ったって無駄だよ。
そもそも、何が正しくて何が間違っているかなんて
一概には言えないんだ。
お前の気持ちも良くわかる。
しかしね、気持ちを押し付けちゃあいけない。
黙って話を聞いてみるんだ。
それでも間違っていると思ったんなら、
もうどうしようもないんだよ。
お前はお前の正しいと思ったことを貫けばいいんだ。
色んなことを経験していくうちに、
いつかお前はわかる時がくるかもしれない、
こないかもしれない、それはわからない。
でも、答えなんてものはどこにでもあるものだからね。
今はその時をじっと待ってみるがいいよ。
それまでは、お前はお前のなすべきことを頑張るのだよ。」

何が正しいかなんて、本当は誰にもわからない。
この世界だってあるいは、大きな壁で囲まれた箱庭で
子供の玩具にすぎないかもしれない。

「いつ山を降りるんだ。」

僕はヒバゴンに聞いた。

「いや、俺はもう少しここにいるよ。
ひょっとしたら、もう帰ることはないのかもしれない。
俺は3年の間ずっと一人だと思っていたが、
そんなことはなかったよ。
俺の周りにはたくさんの友達がいた。
それに気づくことができたんだ。
今となってはもう、取り返しのつかないことだがね。
一人になって、俺は初めて友達のありがたさを感じることができた。
だからこの気持ちを忘れないためにも、
俺はここにいるべきなんだ。
何もかも失ってしまったが、最後にそのことに気づくことができて
俺は本当に幸せだったよ。
お前とはもう会わないかもしれない。
でも、俺はお前を忘れないよ。
ありがとう。
女房によろしく言っておいてくれ。」

ヒバゴンは再び山へと消えていった。
妄想の中での既婚者、
しかし僕は、いったいどれが現実でどれが妄想なのか
自分でもわからなくなっていた。




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